「プラトン」と「イデア論」について死ぬほど分かりやすくポップに仕上げてみた件

ネタ 雑記

(この記事のポップ度:30%)

 

 

紀元前427年

 

アテネの閑静な住宅街の一画

 

いかにも上流階級が住んでいそうな貴族の家。

 

物語はここから始まる。

 

 

 

 

 

プラトン爆誕

 

母ペリクティオネ「あなた、生まれるわよ。」

 

 

父アリストン「お、ついにきたか。」

 

 

母ペリクティオネ「いくわよ。」

 

 

 

Born

 

 

 

 

プラトン「ホギャア

 

 

母ペリクティオネ「あなたに似てるわね。

あなたの名前を文字ってアリストクレスなんて名前はどう?」

 

父アリストン「いいじゃんアリストクレス。

まぁどうせ将来プラトンっていうあだ名の方がメジャーになるんだけどな。」

 

母ペリクティオネ「みなまで言うな。」

 

 

 

プラトンは、家系がいわゆる政治家だらけのサラブレッド。

 

んで、ただのガリ勉君かと思いきや、かたやレスリングにも精を出す、いわゆる文武両道の出木杉君タイプ。

 

つまりいけすかない野郎だったというわけだ。

 

 

そんなこんなで英才教育を受けたプラトンは、それはそれは順風満帆に大人の階段を上っていったのであった。

 

 

運命的な出会い

 

で、プラトンが二十歳くらいのときに、街で

 

 

おい!善について一緒に考えようぜ!!

 

あのー、美ってなんなんすか?ww

 

 

と、街行く人々にかたっぱしから話しかける、今であれば確実に通報されそうな事案野郎に出くわす。

 

それが

 

 

 

ソクラテスだ。

 

 

プラトンは、人間が誰しもスルーしてしまいそうな本質的な問題を深く追求するソクラテスに深く感銘を受け、すぐに弟子入りをするのだった。

 

 

ソクラテスの死

 

 

ソクラテス「俺は奴らには裁かれない。

この毒杯を飲み、自ら命を断つ!!」

ソクラテス「じゃあなみんな・・・。」

プラトン「ソクラテスさぁぁぁぁああああん!!!!」

– END –

ソクラテスの晩年をありえないくらい端折ってポップに仕上げてみた件 – RYULOG

 

 

んで、アテネ中でバズっていたソクラテスのことが気に入らない政治家たちの暴挙によりソクラテスは自殺に追い込まれ、その死を受けプラトンは自分が志していた政治世界への関心は急激に失せ、本格的に哲学の精神世界へとのめり込んでいくことになるのだった。

 

 

そう、尊敬する師匠ソクラテスが追い求めていた「真実」を追い求めるために。 

 

 

ちなみに、ソクラテスはあくまでも対話のフリースタイルで知の伝道をしていたので、一切の書物を書き残していない。

 

だから、ソクラテスの激動の人生は、あまりにもソクラテスを尊敬した弟子のプラトンが書き残した「ソクラテスの弁明」を元に作られている。

 

つまり、プラトンがいなければ、今でもソクラテスの実体は闇の中だったのだ。

 

 

いかにソクラテスとプラトンがセットで重要かがお分かりいただけるだろう。 

 

アカデメイア

 

で、プラトンは40歳になるとアカデメイアっていう場所に学術機関を創設する。

 

天文学とか数学とか政治とか哲学とか、いろんな学問が学べる場所だ。

 

 

 

ちなみにプラトンが60歳くらいになると、アレキサンダー大王の家庭教師を務めたことで有名なアリストテレスがこのアカデメイアの学術機関に入学しきて、プラトンに弟子入りをするんだ。

 

アレキサンダー大王の生涯をありえないくらい端折ってポップに仕上げてみた件 – RYULOG

 

歴史は繋がってるんだよなあ。

 

で、アカデメイアの地に創設されたプラトンの学術機関は、その後高度な学術機関・教育機関を指し示す際にアカデミーと呼ばれるきっかけとなったのだ。

 

 

イデア論

 

で、プラトンが心から尊敬した事案おやじソクラテスは

 

「善とか美とかってなんなんなんすかwww」

 

と人々に語りかけるスタイルで真実の探究をしてたんだけど、プラトンは全く新しい、斬新な探究スタイルを確立する。

 

 

その全く新しい探究スタイルがイデア論なのだ。

 

プラトンは自身が書き記した「国家」という作品の第7巻で非常に興味深いたとえ話をしている。

 

下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。……壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。

プラトン『国家』第7巻

 

 

うん、ぶっちゃけ何が言いたいのか分からんよな。

 

で、ウィキペディア先生の解説によるとこうだ。

 

 

洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える。

洞窟の比喩 – Wikipedia 

 

 

つまり僕が見てるもの、感じるものは、イデアという太陽に照らされて映し出された影でしょ?ってことよ。

 

 

その影を、人間はみな共通の認識として理解しているんじゃなかろうかということだ。

 

 

うん、まだ微妙に分かりづらいよね?

 

 

よし、こんな時は視覚で訴えかけてこうか?

 

 

ポップ図表

 

 

この図表を見てくれ。

 

この図に描かれている形。

 

この形、なんの形に見える?

 

 

 

 

 

 

みんな「丸」だって思ったでしょ。

 

 

はいそれ、それェ!

 

それだよ。

 

その「丸」だって思ったその感じ。

 

 

なんで全部全く違う形なのに「丸」だと認識できたんだ?

 

おかしくね?

 

で、その「おかしくね?」に答えを出そうとしたのがプラトンのイデア論というわけ。

 

 

プラトンの全く新しい探究スタイル「イデア論」的に説明すると、人間はイデアっていう空間から丸のイメージを引っ張り出してきているから、全部違った形でも「丸」だと認識できるっつーことよ。

 

 

 

 

 

イメージ的にはこんなかんじだね。

 

 

もうちょいいってみようか。

 

 

 

これ何に見える?

 

 

もちろん、みんな棒線だと思ったでしょ。

 

 

いやまてよ?

 

 

ちょっと拡大してみようか。

 

 

 

 

はい。

 

拡大してみるともはや同じ棒線には見えないよね。

 

さらに拡大してみると。

 

 

 

 

もはや長方形とかそっちの図に近づいてきてるよなぁ?

 

だって幅が出てきてるじゃん。

 

こんなに幅があるものを棒線って言っちゃっていいの?

 

でも、さっきと残念ながら全く同じ線なんだ。

 

つまり、拡大してみると線って幅があるわけよ。

 

だから見方によっちゃ長方形とかにも見えるはずなのに、パッと見でみんながそれを「線」だって認識できるのは、イデアから引っ張り出してきているからなんだ。

 

 

っていうロジックで「善」とかについての本質を明らかにしようとしたのが、プラトンのイデア論なんだよねぇ。

 

 

「善」、つまり人として良い行いって何?

 

って聞かれたとき。

 

何を思い浮かべる?

 

例えば、高齢者の方に席を譲ったりとか、ゴミ拾いをしたりとか、募金活動したりとか。

 

人によってイメージするものは違うよね。

 

こんなにたくさんの善の形があるのに、それをみんながひとくくりに「善」だって認識できるのはなんで?

 

 

っていうと、プラトン的に言えばそれはイデアにより照らし出された「善」という影を見てそれらを善と認識できるんだ!

 

 

 

 

というのが

 

「ねぇ、善ってなんなんすか?ww」

「美ってなんなんすか?ww」

 

という人間の本質を探究する師匠ソクラテスの疑問に対して、イデア論という形で弟子プラトンが出した答えなのだ。

 

 

最後に

 

幸せって何?生きるって何?みたいないわゆる哲学をきちんとやり始めたのがソクラテス。

 

そしてそのソクラテスの真実の探求に方法論的なやつを提示したのがプラトン。

 

イデア論は、師匠と弟子の紡ぎ出した一つの作品とは言えないだろうか。

 

 

 

そして、イデア論という考え方は、人間の思いつき発想と捉えられるようになり、アイデア(idea)という言葉で今もなお愛され続けているのだ。

 

– END –

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